Trivial or Nontrivial

■絶対に失敗しない悪の支配者になる方法

  • アジトの通気口は人が通れない大きさにする。
  • 悪の力の源になる物体は、モンスターに守られた巨大な山の神殿などではなく、銀行の貸し金庫に保管する。
  • 捕えた敵を殺す前にのんびりとほくそ笑んだりしない。
  • 殺しかけた敵に「最後の頼みだ、秘密を教えてくれ」と言われても、断る。
  • どうしても必要でない限り、自動爆破装置は最初から取り付けない。
  • ヒントになるような暗号や謎解きの類を部屋に残さない。
  • 幹部の一人に平均的な5歳児を加え、その子が見つけることのできた計画の不備は直ちに修正する。
  • 敵が深い谷底に落ちたからといって安心しない。
  • 時限装置は使わないか、使ったとしても「0」ではなく「117」ぐらいで時間切れになるようセットしておく。
  • 「ムハハハハハハ!!」という悪の笑いは、瞬時に起きた出来事を見逃す可能性があるので、なるべく我慢する。
  • ナチス・ドイツなど、すでに敗北した集団に似た制服は部下がネガティブな気分になるのでやめる。
  • 自分は明るいピンクやオレンジの服を来て、敵を困惑させる。
  • 敵グループの複数のメンバーを捕らえたら、同じ牢獄に監禁しない。
  • 人知を超える力を持った悪のスーパー兵器は、もったいつけずに早めに使う。
  • 敵のヒーローを捕らえたら、縄を噛み切る可能性のあるペットの犬、サル、イタチなども忘れずに捕獲する。
  • 殺し屋を雇うときは、金のためだけに働く者を雇う。殺しを快楽とするタイプは相手と不必要な勝負をして墓穴を掘ることが多い。
  • 敵への攻撃に使うモンスターや猛獣にはなるべく優しくしてやり、万一逃げた時に仕返しされないようにする。
  • アジトを建てるときは、廊下に隠れ場所となるへこみや柱がないようにする。
  • 警備兵に侵入者の捜索にあたらせる場合、必ず二人以上のチームで行かせる。また、その一人が突如姿を消した場合は直ちに警報を発して応援を呼ばせ、間違っても一人で通路を覗きこんだりさせない。
  • 腕のいい精神科医の診察を受け、弱点となる恐怖症や強迫障害は事前に克服しておく。
まだあきらめないで! 絶対に失敗しない「悪の支配者」になる方法 : Kotaku JAPAN (via sasorivader)

本当に賢ければ, そもそも悪の支配者なんか, いろいろ面倒くさくて, やってらんないと思う.

自分は普段、ツイッターを情報発信で使っていますが、ある若手外科系医師のつぶやきを読むと気の毒になります。

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『もうだめ・・・寝不足・・・。慢性的な疲労感。休みたい。24時間の休み欲しい。』

『飲ます食わずで朝7時から・・・。朝から一分も休憩なくて今から病棟とスライド作成とかもう無理。ご飯食べたい・・・。』(午後10時)

『仮に休日もらっても何に使ってええか分からん。だって外出できる服がない。髪型ももさもさ。肌ぼろぼろ。あー。死にたい。』

『月に300時間以上働かされると 睡眠だけが癒し』

『うー・・・・今日も帰れないのか・・・・そして明日エグい手術でそのまま当直なのか・・・たしゅけて・・・・』

『ダメだ もう勘弁してくれ 救急隊もう来ないで・・・』(午前7時)

『今から2件。両方とも多摩。地獄だ・・・都内なのに今日は多摩地区の患者しか診察してないでござるの巻。多摩には住めないってことだな・・・』

『ねぇ、大学が各科の時間外受付とか救急の看板降ろすことなんてありえるの・・・?? 「〇〇大学とか・・・」「あそこは救急やめました」 』

『「あのー・・・。多摩には他に救急の施設って無いんですか?」「無いです」 』

『しかし、どちらにお住まいですか?って聞いて、分からん地名が出てくるってすごいよな・・・』

『おかしいやん。23区外の聞いたことない町からこんな都内の中心までの間に救急無いっておかしいやん 』

『日本の医療ってとっくに崩壊してるんだな・・・。東京って…こんなに大きな街なのに…どうしてこんなに救急の施設ないの? 』

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 以上、東京の救急医療現場の先生の発言より。

 多摩地区には老人病院がいっぱいありますが、そこでは急性期医療を行っている病院は限られております。

今後、崩壊が真ん中に向かうベクトルは強くなる一方です。東京には医師が余っているから僻地へ再配置すりゃいい?

 ありえないですね。ちょっと頭を働かせれば、高齢者が激増するのは東京近郊、千葉、埼玉、多摩地区、神奈川と決まっています。

 首都決戦に向けて医師を増やさないと恐ろしい数の急性期の患者さんが都心部に向かうことになります。開業医の過剰とは全く別問題ですね。

江戸の町地は、江戸時代を通じて、たびたびの大火のあとなどに区画整理がおこなわれたが、とにかく町づくりは計画的であったといえよう。 江戸時代もごく初期の、1600 年代のはじめでさえ、江戸に来たスペイン人、ドン・ロドリゴは江戸市街がスペインの市街にまさっていること、地位・職業によって区画が異ることを記し、イギリス人、ジョン・セーリスも、江戸の街路がイングランドのどの街路にも劣らないことを述べている。 幕末の 1859 年から 1862 年まで在日した、初代イギリス公使のラザフォード・オールコックも、市内の街路の管理がゆきとどいていて、西洋の市街にまさるとも劣らぬこと、それに樹木の多いことを繰返しその著 『大君の都——幕末日本滞在記』 の中で賞揚している。 たとえば、次のごとくである。

・・・・・・その都心から出発するとしても、どの方向に向かってすすんでも、木のおいしげった丘があり、常緑の植物や大きな木で縁どられたにこやかな谷間や木陰の小道がある。 しかも、市内でさえも、とくに官庁街の城壁沿いの道路や、そこから田舎の方向に向かって走っている多くの道路や並木道には、ひろびろとした緑の斜面とか、寺の庭園とか、樹木のよくしげった公園とかがあって、目を楽しませてくれる。 このように、市内でも楽しむことができるような都市はほかにはない。 (山口光朔訳、岩波文庫の同書上巻より)

ここにあげた江戸の町の二つの長所——計画的な市街と緑の多いことは、そのごの東京市街の発展では受け継がれなかったようにみえる。 たとえば、東京 23 区の西部でいえば、およそ山手線あたりから外側では、地形的には山手線の内側よりずっと平坦地が広いのに、街路が雑然としている。 また、東京の北東でいえば、ほぼ北十間川 (墨田区) を境として、街路が雑然とした北側と整然とした南側は対照的である。 それらの境は、ほぼ江戸の市街の外と内の境に一致しており、明治以後、ことに関東地震以後の東京の発展が無秩序におこなわれた一例証であり、東京が “巨大な田舎” といわれるゆえんであろう。

貝塚爽平 『東京の自然史』 (講談社学術文庫, 2011, ISBN978-4-06-292082-7) pp. 286-288
関東地震の震害分布と復興調査の結果は、すでにのべたように、泥質または泥炭質の沖積層の厚いところほど震害の大きいことを明示したのであるが、その後の東京の発展の歴史は、このような地盤の良否が知れてしまった故かどうか、地盤が悪く、したがって地価の安いところほど家屋が密集し、あるいは工場の敷地となった。 現代の東京では、“過密地ほど地盤が悪い” といい直すべきであろう。 こうして、洪水、高潮、地盤沈下、震害あるいはそれに起因する火災など地盤に関係ある災害をうける素地は充分にととのってきた、ということができる。
貝塚爽平 『東京の自然史』 (講談社学術文庫, 2011, ISBN978-4-06-292082-7) p. 234
武蔵野台地東部の侵食谷では、泥炭の発達がとくに著しいのは、谷田川下流の不忍池付近、文京区の春日から白山にかけての指ヶ谷泥炭地、溜池付近、古川下流の赤羽橋付近、大田区の馬込の谷、呑川下流の池上付近などである。これらの谷口はほとんど砂州によって谷口をとじられている。すなわち、これらの谷も一時は入江であったのが、砂州に湾口をとじられて潟となり、そこが泥炭地に変ってきたのである。
貝塚爽平 『東京の自然史』 (講談社学術文庫, 2011, ISBN978-4-06-292082-7) p. 198
例えば飛脚が「今日は15キロしか走れなかったわ~明日巻き返すか」と座って休憩してるところに「座ってる時間があったらあと5キロ走ったら?」って言う人が居たら、「えっ」ってなると思うけど、精神的な仕事だとそれを言う人は多い。ずっと走れるものだと錯覚している。そういう人の効率は悪い。 (http://bit.ly/KKkp7j)
from http://bit.ly/JjQKO5 (via kiri2)

調査されている限り唯一の例外が、現代の日本社会である。
 「現代の」というのは、1955年あたりまで、日本の殺人率のグラフはきれいなユニバーサル・カーブを描いていたからだ。
 その後、殺人率の年令分布が変わりカーブは崩れていったのである。何が起こったのか?

 まず総数として殺人(者)は減った。
 いわゆる「戦時中」を除いて、もともと日本の殺人率はほぼ同じ水準を維持してきたが、1950年代以降、この傾向は変わり、殺人率は減り続けた。
 しかし、これを年齢別に見てみると、均等に人を殺さなくなった訳ではないことが分かる。

 最大の変化は、なによりも若者の殺人が激減したことである。
 20代男の殺人率は、1994年には1955年の1/13になった。
 10代男でもやはり1/10に激減した。
 一方、50〜60代男の殺人率は半減程度しか減らなかった。
 最大の殺人者年齢層において殺人率が激減したことで、殺人率グラフのピークがなだらかになり、ユニバーサル・カーブからますます離れていったのである。

 いまや最も人を殺すのは50〜60代男である。
 少年犯罪を過剰に報道する傾向を、データベース化されている朝日新聞の記事を使って示した研究があるが、そうした影に隠れて、いつのまにか日本は「殺人おやじ」の国になってしまっていたのである。

 しかしなぜなのだろうか?

俺、老人苦手。

「おばあちゃんこ」とか「おじいちゃんこ」とかってスゴイ。

老人慣れしてるヤツってスゴイ。

電車で席も譲れない。話しかけるの怖い。

年に一回くらい田舎に連れて行かれた時の祖父母との対応に常にいっぱいいっぱい。

敬語で喋っていいんだか、親に話すみたいに普通にしていいんだかわからなくて、困る。

胃が痛くなる。

親がいなくなると、話題ゼロ。

田舎帰るの嫌い。

で、中学に入ってからは、部活や何だとかいって、親の帰省に付き合わなくなる。

高校に入る頃には祖父母なんて、一番他人に近い知り合い程度の認識。

ところが、

去年、じいちゃんが死んだ。

葬式はさすがに帰省。

正直、神妙な面持ちをするのが精一杯。全然、涙でない。感情移入できない。

ばあちゃんにも、結局、何も声かけれず。一言も話さず。

それから一年。

親父がいきなり

「ばあちゃんを東京に呼ぼうと思うんだけど、いいか?」

発言。

いやいやいやいや、ないないない。

とか、とても言えない。

親父曰く、ばあちゃんは、このところ体調を崩しがちで、入退院を繰り返していて、

一人で暮らしていくのは厳しいと医者から言われたらしい。

いや、うん、でも、えーと。

俺だけではなく、何となくどんよりとした空気が家族に流れる。

誰も反対しなかったけど、なんかみんな歯切れが悪い。

母さんも「部屋をどうするの」とか「手すり」がどうとか、ネガティブ発言。

妹は「なんでウチなのー?お父さん末っ子なのにー」とか言って雷落ちる。

で、先月、ついにばあちゃんが福島から東京の我が家に越してきた。

母さん余所行きの笑顔。

妹、部屋から出てこない。

俺の部屋にじいちゃんの仏壇置かれる。夜怖い。

福島の家は売って、荷物もほとんど処分したみたいだけど、ばあちゃん、変な自転車持ってくる。六蔵って書いてある。

すげぇ古い。じいちゃんの形見っぽい自転車。錆びすぎ。ちょっと邪魔。

そんな感じで、ギクシャクした生活が続く。

母さんと気の使い合い。

たまに作るばあちゃんの飯の味付けがイマイチ。出てくる料理も見慣れない。

家でリラックスできない。

ばあちゃんもばあちゃんで、あんまり喋らない。

2週間前のこと、うちにばあちゃん宛の手紙が来る。

入院してた病院の看護婦さんかららしい。

その看護婦さんはじいちゃんが亡くなるときも立ち会った人みたいで、

手紙の内容は、まぁなんつーか、その時のことをつらつら。

じいちゃんの最期はとても感動的だったらしく、

ばあちゃんがじいちゃんの手を握りながら、

「もっと一緒に暮らしましょうよ。もっとお話しましょうよ。

 もっと私を怒ってくださいよ。もっと色々なところ旅行に行きましょうよ。

 死ぬときは一緒ですよ。もっと一緒にいたいですよ。ずっと一緒ですよ。」

と何度も何度も語りかけながら亡くなってたらしい。

10代で結婚し80年連れ添った二人に凄く感動した、という内容が9割で、

あと1割、新しい環境で元気にやっていますか?という手紙だった。

その日の夕方、ばあちゃんが我が家を震撼させる発言をした。

「自転車の練習をしてみようと思うのだけど、ユウちゃん教えてくれる?」

ユウちゃんは、俺。

ばあちゃんは90オーバー。

さすがに止めた。

ばあちゃん、自転車経験もちろんゼロ。

先月まで、病院でリハビリとかしてた人。

家族、総出で止めた。

全然、折れない。唯一の戦前生まれ。

朝には母さんが諦めたように「ユウちゃん頼むね、見てあげて」と言った。

あと、「絶対絶対絶対、ケガさせないでね!寝たきりなんかになったら、ほんとに困るからね!」と小声で念押し。

その日から、近所の公園で俺とばあちゃんの不毛な特訓が始まる。

話なんて、そんなしたこともないから、黙々とやる。

敬語。目、合わせない感じ。

やや呆れ気味で、練習開始。

はっきり言って、全然乗れない。

足をペダルに乗せる段階から無理。

跨いでサドルに乗るとこまでに2日費やす。

ペダル漕ぐとか、全然別の次元。

二日間、俺はひたすら自転車がこけないように支え続けるのみ。

毎日帰り道、10分間のばあちゃんとの会話が苦痛。

「今、学校ではどんな勉強をしてるの?」

「ユウちゃんは昔から、算数がよくできたからねー」

そればっか。

じいちゃんの自転車がガコガコガコガコいう音ばかりが目立つ。

三日目にして、俺ギブアップ。

買い物行くのを理由に、帰りはじいちゃんの自転車に乗って、先に帰ってくる。

んで、気付いた。

サドル高すぎ。

油をさして、錆びだらけの自転車のサドルを一番低くする。

翌日、どうにかこうにか、跨ることができる。

「ありがとね、ユウちゃん、ありがとね」

拝まれる。

でも90歳のバランス感覚は風前のともしび。

漕ぐとか本当、別次元。

なのに、めちゃくちゃのハンドルさばきで漕ごうとする。

俺、自転車支えるっていうより、抱えてる感じ。

全身筋肉痛。

この頃になると、帰り道は第二次世界大戦話。

空襲とかを家財道具を抱えて逃げまどった話とか聞くと、自転車くらい乗れる気がしてくる。

10日する頃には、どうにか漕いでる。

ただ後ろは支えてないと絶対無理レベル。ふらふらなんてもんじゃない。ドリフだ。

で、ある日、変な石に乗り上げちゃって、

支えてたけど、二人で転んでしまった。

ばあちゃんは思いっきり足と肘とこめかみの辺を擦り剥いた。

血が出てる。

死んだんじゃないかって本気で思った。

救急車呼ぼうかと思った。

ちっちゃい子どもが転ぶような微笑ましさは全くない。

俺、さすがにショック。

ばあちゃんも、とても怖かったようでショック。

家に帰って、母さんに一方的に怒られて、俺は思わず部屋で泣いた。

その日の夕飯、ばあちゃんが話す。

じいちゃんが病気になるまでずっと自転車で町内の牛乳配りをしてたこと。

それは割と町内でも有名で、手紙をくれた看護婦さんも、そんなじいちゃんをよく見てたこと。

六蔵さんの自転車の音がすると元気が出ると評判だったこと。

そんなじいちゃんの自転車に乗れるようになって「心配しないでね」って「みんなも元気で」って

町のみんなに手紙を書きたかった、と。

福島で生まれて、福島で生きてきた。

90年暮らした土地を離れて、人生の最後に、俺んちに来たばあちゃん。

「んだ、全然だめだったぁーって手紙書くからねー。ユウちゃんありがとねー」

と言う。

次の日、昨日言った通り、練習は無し。もう無し。

洗濯物を畳んでるばあちゃんに、何か言いたいけど、何も言えない。

すると夕方、親父がスゴイ勢いで帰ってくる。

「ユウ、庭でコレつけろ!ばあちゃん、自転車に補助輪つけっから!

 もう一回乗ってみろ!」

親父、補助輪買ってきた。

それを見て呆れた妹は、バレーの練習に使ってるサポーターをばあちゃんに渡した。

母さんの夕食のメニューがほとんどタンパク質中心になった。

バカ家族。

それから、我が家では夕方になると、家族総出で公園。

公園で自転車の練習。

そしてついに昨日、俺が支えることなく、15メートルくらい漕ぐことができた。

それを見て興奮した母さんが、ダッシュで家に戻って、息を切らせて公園に戻ってきた。

「ビデオ!お父さん、ビデオ!」つって。

で、まるで我が子の自転車デビューを撮影するかのように、

90歳のはじめての自転車を撮影。

公園の端から端。

「ばあちゃん、手離すよ!行け!」

ばあちゃんがカメラを持ってる親父のところまで、必死に自転車を漕ぐ。

ヨロヨロと。ガタガタと。でもまっすぐと。

「行けっ!行けっ!」

「いいぞっ!いいぞっ!」

ばあちゃんの後ろ姿に、声つまる。

親父の声も、裏返ってる。

20メートルくらい、新記録を漕いだ。

すげえ。すごい。すごい!

親父のカメラの前で半分こける感じで自転車を降りて、ばあちゃんはカメラの前にピースして大笑い。

俺は、ばあちゃんに何か言おうと駆け寄るけど、声にならなくて、

目を反らした先の自転車に書かれたじいちゃんの名前を見て、もう たまらなくなってしまった。

骨張って、角張って、マジックでしっかりと「六蔵」って書かれてた。

あの日、死んじゃったのは、この人なんだな。

なんで、死んじゃったんだよ、じいちゃん。

ばあちゃん、自転車乗っちゃったんだぞ、って。

その日、撮ったビデオは、家で再生すると、ブルブル震えすぎで、とても見れたもんじゃなかった。

親父、感動しすぎ。

もうスタートから、涙ぐんじゃって、ばあちゃん ぼやけて見えなかった、らしい。

仕方ないから、福島へは写真を送ることになった。

それからも ばあちゃんは、ちょっとした出先に六蔵自転車で行く。

もっと一緒に暮らしましょうよ。

もっと色々なところ旅行に行きましょうよ。

もっと一緒にいたいですよ。

ずっと一緒ですよ。

を体現してるみたいに。

自分がまだ幼稚園児の頃だと思うのだが、
夜中にふいに目が覚めると、父が覗き込んでいて、いきなり泣き出した。
大人が泣くのを見るのは、記憶の限りその時が初めてで、
しかも父はとにかく強くてかっこいい!と信じていたので、凄く吃驚して変に印象に残ってる。
その後、何度か確認する機会があったが、父がいつも
「夢でも見たんだろう」と言っていたので、何しろ幼児の頃の記憶だし、自分もそう思うようになっていた。

が、20年以上の歳月を経て、父はついに白状した。
当時、とにかく忙しい職場に勤めていた父は、朝は私が起き出す前に出勤。夜は就寝後に帰宅の日々。
寝顔をそっと覗き見るのが日課で、このままでは娘に顔を忘れられてしまうと不安に思っていたらしい。
そんなある日、いつものように寝顔を眺めていると、私が目を覚ましてしまった。
やばい、良く寝ていたのに、ぐずってしまうかも知れない…父が焦っていると、
私が寝ぼけ眼のまま「おとーしゃんだ」と言って、ニッコリと笑ったらしい。
ろくに顔をあわせることもできず、たまの休みにも疲れ果てて寝ていることが多い。
しかもこんな夜中に起こされて、それでもこの子は自分の顔を見て喜んでくれるのか、
こんなふうに笑ってくれるのか、と思ったら、愛しさが込み上げて思わず泣いてしまったらしい。
それがどうにも恥ずかしくて照れくさくて、どうしても本当のことが言えなかった。
嘘付いててスマン!と告白される結婚式前夜。
内心は萌えつつも、明日目が腫れたらど-してくれる!!と私が切れたので、笑い話になったが、
父が涙を流していたあの記憶は、私にとって良い思い出になった。
fujisan3:

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難易度世界一「新宿駅を攻略する方法」:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52542030.html

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